の作業記録
病院にいく火曜日
- 作業記録の共有
- メルマガ+Scrapbox知的生産術のその1を書く
- R-style+Logseq(細かい話)
- 結城メルマガを読む
- PT+アウトラインの再構成(再構成完了)
- BCB+chapter02の手直し(40行)(LINE89まで)
- TH+chapter02の書き固め(10行)(Line146行目まで)
9:00
おはようございます。今日は午後から心療内科です。
movie:dvd:『マトリックス レザレクションズ』:
昨日観ました。正直、どんなひねくれた話が展開されるのかと思っていましたが、ごく普通の「マトリックス」でした。エンディングもハッピーエンドで、ポリティカルコレクトネスに配慮した感じがすごくうかがえました。
寓話的で、社会批評的な面はあいかわらずで、でも「何がなんだかよくわからない」という異端さはあまりなかった印象。エヴァの劇場版を思いだしました。
push :絶対零度のエクリチュール
10:00
メルマガ:
続きを書きましょう。
* * *
少し書き足して2400文字になりました。この原稿を書くのは結構疲れます。一回はこのくらいのボリュームが負荷的にちょうどいいですが、そうすると終了するまで4ヶ月くらいかかるかもしれません。
R-style:
書きます。
* * *
書きました。
publish:R-style:Logseq、こんにちは その5 – R-style
連載はいったんこれで終了。
11:00
結城メルマガ:
読みました。
publish:Scrapbox:結城メルマガYMM526の感想 - 倉下忠憲の発想工房
PT:
アウトラインを少しだけいじります。
* * *
頂いたコメントは反映できたと思います。
あとは、もう書きながら考えるしかないですね。
「はじめに」の次にあたるchapter00の「ノートを書く目的と意義」を次に書くことを目標としましょう。
* * *
とりあえずファイルを作り、簡単なメモ書きを残しておきました。中身はもう少し考えます。
14:00
BCB:
chapter02を続けます。
* * *
LINE89まで。じわじわ進んでおります。
16:00
病院に行ってきました。特に変わらず。
TH:
chapter02の続きから。
* * *
146行目まで。
17:00
かーそる第五号:
そろそろ方向性が見えてきつつある。
生活の中にある「技術」と「工夫」が展開したいテーマ。しかし、どう名付けるのかは見えていない。
そこで、まず自分の原稿を書いてみようと思う。「ライフハックは死んだのか?」というメルマガで書いていたようなテーマをベースにする。
とりあえず「知的生産の」という限定から離れてみること。その上で、しかし「知的生産」に返ってくる、ということはもちろんありえる。
* * *
私たちが生きていく上で、自分なりの「技術」や「工夫」を持つということはどういうことか、を考えていきたい。
研究ノート:冷笑についての考察
キッカケとなったツイート。
https://twitter.com/masayachiba/status/1518425098105286656
かつて、つまり蓮實重彥氏が大きな存在感を持っていた時代において発揮されていた知性が、今では「冷笑」などと呼ばれる。
冷笑主義。シニシズム。
かつてと現在で何が変わったのかと言えば、「共感」を至上とする態度だろう。
理性的、理知的な態度とは、対象の言説とは距離を置くものだ。Aの主張をそのまま受けとるのではなく、「Aはこう言っている」という距離の置き方をする。カッコでくくる。
共感に寄り添わない、一緒に盛り上がってくれないのだから、それは冷たいことになってしまうだろう。
ノリから距離を置く、ということ。
「Aが問題だ!」というときに、「たしかにAに問題があるのかもしれないが、それが問題と認識されている状況は、実はAの上部構造にあるのだ」という意見の持ち方は、ぜんぜん共感的ではない。しかし、それこそが理性的なアプローチであろう。
研究ノート:集中力の欠如は自然
きっかけとなったツイート
https://twitter.com/wakuworklife/status/1518702981323300864?s=21&t=MRXrxUlqKRzsVqUAYR7xPQ
「集中力がない」ことを「散漫力がある」と捉え直すことは有効だろう。しかし、集中力がないことは、やはり集中力がないことを意味する。
そもそも生物的に1時間も同じ対象に集中するという状態が不自然だ。
人間は生物的にそうした集中力を元から持っているわけではない。
むしろ、文化的に後から身に付けられるものだろう。
つまり、「散漫力がある」という表現がおかしくて、それは人間の自然状態であると言える。
だからそういう表現はやめましょう、という話ではなく、むしろ人間に不自然な集中力の習得を課しているこの社会への批判としてこの観点は立ち上げられるのではないか、ということだ。