の作業記録
ゆっくりしたい日曜日
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8:00
おはようございます。本日はメルマガを午前中にしあげて、THを少し触り、それ移行はゆっくりしたいと思います。完全に脱稿したと言えるなら楽しみにとっている「三体」の最終巻を読みたいところですが、はてさて。
publish:シゴタノ!:アイデアは捨て置いてよい、と考える | シゴタノ!
push :人は、死ぬまで生き続ける。
fragment:真に「主体的になる」ことについて:
真に「主体的になる」ことについて考えている。
たとえば、私が「皆さん、主体的になりましょう!」と訴えかけて、「なるほど、それは大切なことだ」と納得して主体的な行き方をしようと思ったとき、その行為は主体的になされたと言えるのかどうか。
あるいは、言えないとして、そのねじれにどんな意味があるのか。
最初は主体的でなくても、主体的であろうと努める中で主体性が獲得されていくと考える。あるいは、そのようなねじれでしか主体性は獲得できないのだ、ということか。
主体的になることを徹底することで、そのような「他人が言っていたから主体的になる」という構造を逸脱できるだろうか。
fragment:屋根裏の傾聴;
困っている人の話を傾聴することが大切、とよくいわれる。いろいろ意見を挟み込むことをせず、ただ聞くという姿勢。
ではある人が自分の部屋で独り言で愚痴をこぼしているとして、それを屋根裏に隠れてこっそり聞いているのは完全完璧な傾聴と言えるだろうか。おそらくそうではないだろう。本当にただ聞けばいいわけではない。頷きなどのノンバーバルなコミュニケーションが必要。そして、それ以上に、「自分の話を聞いてくれる他者がそこにいる」という感覚が重要なのではないか。
fragment:確率の取り扱いの難しさ:
「たまたまそうなった」とか「一定の確率で(意図がなくても)起こる」のような捉え方が仮に難しいとして、その難しさをトリガーしているのは何なのだろうか。生物学的なものか、それとも文化的なものか。あるいはその絡み合いか。
脳は、意味器官であり、「これが起きたから、こうなった」を強く推論するものだろう。だから、私たちは確率論が扱いにくいのか? しかし、進化論の話を聞くと、インテリジェントなデザイナーがいなくても、多様な生物種が生まれ得ることは理解できる。つまり「たまたまこうなる」ということが、一つの意味として理解される。ここに脱出の手がかりがある。
メルマガ読み返し:
読み返しましょう。
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読み返しが終わりました。続いて配信作業。
9:00
メルマガ配信予約:
まずはまぐまぐから。
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つづいてnote。
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無事終了です。一休みしてから、THの「はじめに」を少し触りましょう。